石川理紀之助とは

 石川理紀之助とは

 秋田の二宮尊徳と称せられ、その生涯を農村の更正、農家の救済、農業の振興のために捧げつくした農聖として、その高名は県内のみならず全国に知られている。
 弘化2年(1845年)2月25日秋田市金足小泉の農家、奈良周喜治の三男として生まれ、21歳の時、潟上市昭和町豊川山田の石川長十郎の養子となる。廃藩の後、秋田県勧業課の官吏に出任。明治11年、34歳で種苗交換会を創設し今日の全県的一大行事の礎を築いた。
 明治15年、官職を辞し、居村救済に着手。29年から2県8郡49か町村の経済調査・土壌調査などの「適産調」を開始し、731冊の本にまとめた。
「寝て居て人を起こすことなかれ」は翁の金言としてよく知られているが、翁は和歌にも秀でており、また書をよくし、多くの著書を著した。
 翁の功績は全国でも高い評価を受け、明治27~28年は招かれてはるばる九州73か所を講演行脚したり、晩年は県内において、仙北郡強首村(現大仙市)の九升田、平鹿郡角間川木内(現大仙市)の両部落復興の指導に当たるなどして過ごした。
 大正4年9月8日、71歳の生涯を終えた。

 種苗交換会

秋田県種苗交換会は石川翁が推進役となり始まった歴史あるイベントである。当時は、農業振興や腐米改良事業を目的として行われていた。

 草木谷山居生活

貧しい農村を救済するため、自宅から1.6㎞離れた「草木谷」に粗末な小屋を建て、貧農生活を実践した。また、自身の誠意を世の農民に理解してもらうため生活した地

 適産調 

県内外49町村を対象に、土壌の種類、田畑面積、人口、戸数、生産物、自作農地と小作農地の収入、農作業、生活習慣に至るまで細かく調べる「適産調」を行い731冊の調書にまとめられた。

 遠くは宮崎など全国各地の農村救済 

明治35年(西暦 1902年)、宮崎県谷頭村へ。石川翁の畏友・前田正名の要請により、宮崎県の農村指導を行う。旅費・小遣い一切を自己負担とし、死を覚悟して同志7人とともに滞在、極貧怠惰な村を6ケ月で建て直した。

 

石川翁遺跡群

九州、谷頭の村おこしの指導に行った石川理紀之助翁と7人の同志。明治35年9月鹿児島で撮影した写真です。後列向かって右より伊藤永助、伊藤与助、佐藤政治、田仲源治、伊藤甚一、桜原金之助(夜学生)前列佐藤市太郎、竹森重二(夜学生)、石川翁、森川源三郎、村岡新之助(夜学生)。
来年、石川翁生誕170年にあたり、石川翁と同志7人の足跡をたどっています。中でも佐藤政治、田仲源治、佐藤市太郎の3人についての情報がとても少なく、また大仙市九升田の救済活躍もしているのですが、こちらの情報も少ないのです。どなたか情報をお持ちの方はご協力ください。

 石川理紀之助翁 略年表

1845 弘化 2 1

誕生秋田郡小泉村父・奈良周喜治(三男)

1853 嘉永 6 9

手習師匠について学ぶ

1865 慶応 1 21

山田村石川長十郎の婿養子となる

1867 3 23

農業畊作会をつくる

1869 明治 2 25

肝煎後見役となる

1872 5 28

秋田県租税課に出仕する

1877 10 33

内国勧業博覧会へ用務をおびて上京途中各県の農業視察勧業義会一支会をつくる

1878 11 34

腐米改良事業に取り組む種苗交換会をはじめる

1880 13 36

歴観農話連をつくる

1883 16 39

官職をやめて農家経済の道を教える為に村に帰る

1885 18 41

山田村経済会をつくり救済事業をはじめる

1887 20 43

長男民之助家出訪ねて干島にわたり遺骨を持ち帰る

1888 21 44

農商務省で山田村経済会の実績について講話す

1889 22 45

山田村救済第一期の目標完遂 草木谷に山居す

1894 27 50

第1回農事大会に出席有功章をうける 北白川宮殿下の命により九州各県を巡講

1895 28 51

農会をつくり郡農会長・県農会長となる山形の奥羽農事大会に出席四国各県・千葉県を巡講

1896 29 52

適産調をはじめる

1902 35 58

同志7名とともに宮崎県に行き前田正名(元農商務次官)の事業に協力して圧内村谷頭(たにがしら)の指導にあたる この年適産調終了

1903 36 59

あとつぎ老之助(おいのすけ)病死

1912 45 68

乾田適地調査を行う強首(こわくび)村九升田の救済に着手す

1913 大正 2 69

宮城県巡講 秋には青森地方の凶作地視察巡講

1914 3 70

角間川町木内(きうち)布晒(ぬのさらし)地区の指導にとりかかる夫人スワ子病没

1915 4 71

強首村九升田指導第一期完了 9月8日永眠